20~30代【生き方】教員ではなく一人の人間として

わたしは、公立学校の教員として、正規採用されました。

しかし、3年という月日が過ぎる中で、疑問が出てきました。

「このままでいいのか?」

「やりたいことをやれているのか?」

―― 答えは、どちらに対しても NO でした。

 

今回は、同じ感覚の先生に向けて、わたしなりの考えをお伝えしていきます。

 

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教員生活で感じた3つのこと

教員生活を通して感じたことは、この記事だけで書き尽くすことはできません。

とりあえず、今回は、次の3つに絞って書かせていただきます。

同じような毎日で、つまらない

教員生活は、1年サイクルです。

春は新学期ということで かなり忙しい日々を送り、子どもが夏休みのときは つかの間の休息、秋には行事の準備・反省で忙しく、冬には入学試験や次年度の準備に追われるという流れです。

どの学校でもパターン化していて、面白みに欠けます。

 

公務員は、安定を求めて職を選ぶ人が多いのですが、それにしても、型に はまりすぎていませんか?

子どもを叱るのも、保護者の対応も、一定のパターンがあって、こういう話をされたときは このように対応するという経験則ができてしまうのです。

つまり、多くの先生は、機械的に対応するのです。

 

たとえば、保護者が我が子の担任に対して、言いがかりをつけてきたとしましょう。

その場合、教員側(学校側)に非はないので、謝ることはしません。

そのまま、保護者の方の話をひたすら聞きます。

そうしているうちに、保護者の方が話し疲れたり、満足されたりして お帰りになります。

教員は、相槌を打ちながら、これを待つだけなのです。

保護者の方が帰られた後、管理職に報告はしますが、書類に要点をまとめるだけなので、教員にとっては造作もないことです。

 

このように、どのようなこともパターン化されてしまい、ほぼ同じ日々の繰り返しになるのが教員という職です。

もちろん、このパターン化をよしとする方もいらっしゃいます。

 

しかし、わたしは、そのような教員に いつまでも憧れを抱いていられませんでした。

父が会社の経営に携わっているのを見てきたからだと思います。

父の生活に比べて、わたしの教員生活はパターン化していたため、

「なんて地味なんだろう」

そう思ったときもあるほどです。

わたしは、きっと、さまざまなことにチャレンジしている 父にあこがれていたのでしょうね。

 

視野が狭くなることの恐ろしさ

教員になって、恐怖を感じたことがいくつかあります。

そのうちのひとつは、教員をしていると、「学校」や「教育」にしか目が向かなくなることです。

 

もちろん、「教育のプロ」という面からであれば、それらに対するアンテナをつねに高くしておく必要はあります。

ただ、「学校」や「教育」以外のアンテナも、高く保つことができる教員は、めったにいません。

 

そうして、視野が狭くなった教員は、「世界で何が起きているか」というようなことには、目が向かないのです。

世界や社会に目が向かないということは、子どもたちに、最新の情報を伝えられないということです。

教科書には、最新の情報ばかり載っていると思ったら、大間違いです。

ときには、教科書に書かれた内容が間違っていることもあります。

少なくとも教科書には、作られた当時の情報までしか書かれていないのです。

時代遅れの内容を伝えてしまうことになりかねません。

 

 

しかし、サラリーマンは、教員と違います。

さまざまな経歴をもつ人や、ほかの業種の人とよく話をすることが ふつうです。

そうした さまざまな人との交流をはじめ、サラリーマンには、視野を広げる機会が多々あるのです。

 

教員の身近なところにいる人は、上司や部下をはじめ、相談相手も、飲み会の参加メンバーも「教員」です。

ということは、話す内容のほとんどが「学校」や「教育」になってしまい、視野に偏りが生じてしまうということです。

 

だから、世界は「今」も変わっているというのに、日本の学校の中は、昔とちっとも変わらないのです。

世界が変わっても、時代遅れの波に乗るしかないのが日本の学校であり、教員たちです。

これによって、子どもたちの考えが、限定的で時代遅れのものになってしまわないか、心配しています。

 

そこで、「学校」や「教育」以外のことを話すほうが視野を広げることにつながると考えます。

同業者の「教員」と話すのではなく、サラリーマンの友人や起業家と話すべきなのではないでしょうか。

政治・経済に関することのひとつやふたつ、だれかと深く話したほうが視野はグッと広がり、今、自分が何をすべきか見えてくるはずです。

  

 

現代は、スマートフォンを使う人が多い。

また、わたしの知り合いには、「知らないことが怖い」という人が数人います。

その人たちは、スマートフォンなどで 意識的にニュースを見て、さまざまな情報を得るようにしているそうです。

 

学校の先生で、そのような人は ほとんどいません。

もっと正確に言うなら、日常の業務で手一杯のため、「学校」や「教育」にしか目が向かないのです。

日本全体で 余裕のない先生が多いことは、早急に改善されるべきことだと考えます。

 

ただ、多くの先生は、視野が狭くなっていることに気づいていらっしゃいません。

それも日常の業務量が多いからです。

 

わたしは、この視野がどんどん狭くなる感覚が苦手です。

1つの物事だけではなく、さまざまなことを学び、経験したいからです。

教員をしていると、さまざまな場面で「視野を広げる努力をしなさい」と言われます。

わたしは、学ぶのが好きだからこそ、視野を広げ続けることができるのかもしれません。

  

感覚がマヒする恐ろしさ

「教員は、多忙な職だ」

「学校ほどブラックな職場はない」

などと、密かに ささやかれる昨今、実際に教員になってみて、そのことを強く実感しました。

 

しかし、

―― 多くの職員が 定時に帰れないのは当たり前。

―― 公立学校でも、子どもと保護者はお客様。

これって、ふつうのことですか?

わたしは、違うと思います。

 

定時に帰れないのは ふつうではありません。

先輩の教員など放っておいて、業務が終われば、「お先に失礼します」と言って帰ればよいです。

また、私立学校なら、子どもと保護者はお客様かもしれませんが、少なくとも 公立学校で同じようにあるべきではありません。

 

教員であり続けると、40年以上、この ふつうではない生活が続きます。

ヒトは、比較的に適応能力が高い生き物なので、自分が置かれた環境に慣れていきます。

教員にとって「慣れ」は、大変 恐ろしいことで、ふつうの感覚が どんどん狂っていくのです。

教員の中で、これを怖いと思うのは、わたしだけだったのでしょうか。

 

教員の会議は、長いことで有名ですよね。

場合によっては、3時間以上あることもあります。

しかし、だれ一人「長すぎるから、またの機会にしましょう」などと言いません。

これの根本的な原因は、いまだに 年功序列がはびこっているからです。

早い話が、若手がベテラン教員に物申せないということです。

 

それって、時代遅れではありませんか?

いつまでそのような「暗黙の了解」を若手に押し付けるおつもりですか?

「それも勉強のうちだ」とおっしゃるかたがいますが、自分がされてきた教育を今の若手教員に施すことほど、傲慢なものはありません。

若手のうちから自分を犠牲にさせて、身が滅んでしまっては元も子もありませんよね。

ただ、多くの教員には、「年功序列が ふつうではない」という感覚がないようです。

つまり、すでに、学校全体で 感覚がマヒしていると言っても過言ではないように感じます。

 

ある書籍には、次のように書かれていました。

なぜ人と組織は変われないのか。

―― それは、免疫システムが働いているから。

変化に対して自分を守ろうとしている免疫システムがあることで、「変わること」に恐怖を感じてしまうのである。

 

また、必要だと分かっていても、およそ85%の人が行動を起こさない。

―― それは、裏の目標や強力な固定観念があるから

組織にいる人がもつ 裏の目標や強力な固定観念を払拭しない限り、組織は変われない。

 

ただし、

「人は変わることができる。成長できる。」

つまり、組織も変われるのである。

 

なぜ人と組織は変われないのか ハーバード流自己変革の理論と実践
(ロバート・キーガン, リサ・ラスコウ・レイヒー著 英治出版)

 

日本の教育の現状

現代の流れに合わせて、個々に応じた教育をしていくべきなのですが、簡単にはできません。

国としても、今の教育を変えるべきだというのは把握されているようで、学校教育の改革が少しずつ行われています。

しかし、今しているような、少しずつ変える方法では、教育を変えられないようです。

日本という国単位で、一気に教育改革を進める必要があると わたしは考えます。

 

 

日本は、時代遅れの教育を続けながら、正規の教員の数が足りていない実状があります。

さまざまな学校現場を見れば、「少子化が進んでいるから、教員の数を減らす必要がある」なんていうのは、明らかに間違っていると分かります。

そもそも、物事を甘くとらえる保護者が増え、さらには、共働きの家庭も増えたことで、親による子どものしつけが行われにくくなっていることが背景にあります。

そうして、しつけが十分でない、または、親の愛情を十分にもらっていない子どもは、学校で問題を起こしてしまうことがあります。

それに加えて、以前と比べて 要支援の子ども(障害をもつ子ども)が増えてきています。

しかし、教員の数がこれに見合っていないため、学校現場は人手不足の悲鳴を上げています。

 

学校現場では悲鳴が上がっているのにも関わらず、社会全体で 見て見ぬふりをされているように感じます。

これに追い打ちをかけるかのように、これまで行われてこなかった、小学校での英語教育の必修化や、プログラミング教育、統計学など、新たにやらなければならないことが増えました。

先生方の時間を奪い、健康を損なわせることがあるほどの業務量です。

これに加えて、教員のお給料を減らしたり、新規採用する教員の数を減らしたりしていいなんて、誰が思うのでしょうか?

個人的に、今のままでは、本当に日本や世界のためになる教育は、できないと強く思います。

 

子どものためになることを考える

ここまで述べてきたように、今の学校教育は、限界があると感じています。

だから、学校という枠組みから出て、本当に子どものためになることをしたいという思いが強くなりました。

 

とくに、年をとっていくと、形ないものが大切になることがよく分かります。

子どものころは、そのようなことは分かりません。

だから、子どもたちに 少しでも形ないものの大切さを伝えていく必要があると感じます。

形ないもの中でも、「こころ」、「コミュニケーション能力」、「人脈」、「健康」、「専門的なワザ」の大切さを忘れない人になってほしいと思っています。

 

最近では、貧しい家庭に生まれ、落とし物の鉛筆で勉学に励むという子どももいます。

まともな食事は給食だけで、家庭では質素な食事しか与えられないという子もいます。

そのような家庭であっても、大人が子どものためになることを必死に伝えていれば、立派な大人になれる可能性は高まるのではないでしょうか。

また、子どもが安心してご飯を食べたり、自然に笑ったりすることができる場所も必要だと考えます。

 

わたしは、そのような子どもの居場所をつくるとともに、将来の成功をつかむための導き手になりたいのです。

もちろん、わたし ひとりの力だけでは足りないことも分かっています。

だから、まずは、ここから頑張ろうと決め、全国にいるそうした子どもたちのために、動いている次第です。

子どもたちのためになることを行うのは、これからの日本や世界を支えることにつながると 信じているからです。

 

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新卒採用の先生に言いたいこと

わたしは、公立学校の教員に採用される前から、

「先生になりたくない。」

と、心のどこかで思い始めていました。

実際に、大学院に進んだり、民間企業への就職を考えたりもしていました。

 

しかし、よくこう言いませんか?

 「まずは、3年間 がむしゃらに働いてみろ。」

 

両親からも同じことを言われました。

だから、せっかく合格した高校教員という仕事を、3年間 勤めあげた次第です。

 

 

今から思えば、大学生のときに、将来について深く考えておけばよかったと後悔しています。

そうすれば、今以上に幸せな暮らしだったとも思います。

 

この教員生活の3年間は、無駄ではなかったと思いたいですが、まだ その域に達してはいません。

 

教員になって1年目の秋、

「この先、40年以上も教員生活が続くのか」

と考えた時、死んだ方がマシだと思ったのです。

正直に言って、精神が病んでいたと思います。

 

新卒の先生の中には、心から教員にあこがれ、教員になりたくて仕方なかった方もいらっしゃると思います。

そうではない新卒の先生は、今一度、自分の心に問いかけてみてください。

―― 本当に、このままの生活で 良いのですか?

 

人生100年時代の到来とも言われています。

100歳になったあなたが「今のあなた」を見て、どう思うでしょうか。

そうして、慎重にあなたの「今」を選択してくださいね。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

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